『難病を宣告されて・・・』後編
『難病を宣告されて……。(後編)』
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今の自分に出来ること。
役者しかやってこなかった僕にとって、それはなかなかの難問でした。
後ろを振り返らないために、過去の写真を処分しました。
それでも......。
やりたい事に夢中になって、全力で取り組めていたあの頃の記憶は消せませんでした。
自分の意志ではない、抗いようのない大きなチカラで夢を諦めなければならなくなった、悔しさともどかしさに苛まれる日々。
そんなある日。
フラッと立ち寄った本屋さんで、運命的な出逢いをしたんです。
それは、当時に大流行していた【ベイブリッジを封鎖できない系】の刑事ドラマのシナリオ本でした。
その中に、とある【シナリオ学校の生徒募集広告】を見つけたんです!!
直感的に『コレだ!』と思いました。
劇団時代に脚本も書いていたし、なによりシナリオを書くのは身体に痺れがあってもやれると思ったんです。
その日のうちに即申込み。
身体の底からチカラが湧いてくるような、どこか懐かしい感覚が蘇ってくる。
何かひとつ目標を持つだけで、人はこんなにも変わるんです。
こうして、僕は失っていた【自分の居場所】をみつけました。
それからの僕は、シナリオ・ライターになるために、とにかく書き続けました。
片っ端からコンクールに応募をする日々。
飲んでいる薬の影響で免疫力がかなり下がっていて人ごみには行けないので、DVDをレンタルして来て1日1本の映画を観続けました。
その数、実に1000本超!!
その間も病気は待ってはくれません。
多いときには隔月で再燃をして、入退院を繰り返しました。
ものが二重に見える複視が復活したり、左手足の動きが悪くなったり、脳の記憶を司る場所【海馬】に複数の病巣が出来たりと、毎回その症状は様々。
その都度、大量のステロイドを点滴で投与してもらう【ステロイドパルス】という処置をしてもらいながら、とにかく書き続けました。
コンクール入賞は出来なかったものの、何人かのプロデューサーさんに顔と名前を覚えて貰えるようになり、なんとか道が開けそうになっていたとき……。
右足の股関節に、経験したことのない激痛が走りました。
『なんだコレ!?』
少しでも足を動かそうとすると、脳天まで強烈な痛みが突き抜ける。
5cmほどの小さな段差にも上がることが出来なくなって、さすがに日常生活にも大きな支障が出始めました。
上手く動かない左足で、痛くて動かせない右足をかばいながら病院へ行くと。
まさかもう一度聞くことになるとは夢にも思っていなかったあの宣告をうけました。
『特発性大腿骨頭壊死症……難病です』
さすがに驚きはしましたが、2回目ともなると耐性が出来るのか、告知を受けてからも割りと冷静でした。
壊死の進行具合もかなり進んでおり、いつ骨が潰れてもおかしくない状態。
でも、人口関節の寿命は持って20年ほどらしく、今手術をしたら恐らく20年以内にもう一度入れ替え手術をしなければならないと言われました。
今の自分を取るか、20年後の自分を取るか……。
僕は、迷わず【今の自分】を選びました。
この時、38歳。
日本中が東日本大震災の爪あとに心を痛めていた、2012年の夏でした。
手術は結構な大手術だったそうです。
なんか他人事みたいですが、全身麻酔で眠っていたので全く記憶にはありません(笑)
でも、手術をしたおかげで右足の痛みは劇的に軽減しました。
筋力が落ちているので、今も自宅でリハビリを続けていますが、片足で立つことも出来るほどに回復しています。
それからも、決して平坦な道ではありませんでした。
多発性硬化症の再燃。
左股関節の壊死が進行。
MRI撮影中に急に閉所恐怖症になったのをきっかけに、加呼吸や原因不明の不安感に襲われるようにもなりました。
でも!!
今も僕は元気です!
活動の場所が東京から大阪に変わりはしましたが。
生まれ育ったこの街で、毎日ゲラゲラと笑いながら、思いっきり生きています!
僕は、一度は夢を諦めなければなりませんでした。
だから。
もう2度と諦めることはしたくない。
夢のカタチは、どんどんと変わっていくかも知れません。
それは良い事だと思うんです。
大切なのは【夢を見ることを諦めてしまわないこと】。
これからも、きっといろんなことがあるでしょう。
今の自分には想像も出来ない困難が待っているかもしれません。
でも。
僕は夢をみつづけます。
病気も全部ひっくるめた自分で。
ずっとずっと夢を追いながら、毎日を笑って生きていきます。
それが、僕の【誇り】です。
みさなんも、夢をみつづけてくれたら良いのにな。
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